
「これしかない」と、しゃにむに突っ走る
ところが、東京にある工場長の自宅に何度足を運んでも首を縦に振ってくれない。 13回目の訪問のとき、「君には負けたよ」といわれたが、同時に「燃料が石油に代わるので石炭殻はなくなる」といわれてしまった。
ただ、ガックリと肩を落としていた私に、工場長は「石炭殻は出せないが、東京に新設する現像所の社員食堂を請け負ってみてはどうか」と 勧めてくれたんです。これが現在の事業の出発点となりました。
今の事業の始まりは、ビジネスチャンスなどというカッコのいいものではなかったんです。 だいたい、工場を焼かれて上京し、新宿駅前の雑踏に立ったときでさえ、私は石炭殻の一件を忘れて、 「この人たちから1円ずつ稼がせてもらったら大変な儲けになるなあ」などと夢想していたんですから(笑)。
そのときの私のいでたちは、火事で焼け焦げた内ポケットがボロッと落ちてしまいそうな背広1枚。しかも、上京のための資金は、焼け残った鉄屑を売って作ったものだったんですよ。
主観的には「気概」に溢れていても、客観的には「これしかない」という状況だったわけです。要するに、しゃにむに、無我夢中にやるしかなかった……。
臨機応変な発想が
次のビジネスを生み、育てる
社員食堂事業が軌道に乗ったのもつかの間、食文化の多様化からそれまでの1種類の定食でよかった社員食堂のメニューに多品種化の要望が出される。しかし、当時は和・洋・中すべてのメニューをこなせる料理人がおらず、志太はこれを養成しようと、調理師学校を設立した。 その後、大阪万博の会場で米国の「カフェテリア方式」の食堂を見て「これだ!」と日本で初めてカフェテリア方式の食堂を作り上げた。 後に志太は、このカフェテリア方式を和・洋・中の料理を別々の円形カウンターで出す「アイランド方式」を考案した。
病院や学校の給食事業もそうですが、この事業を大きくしていくには、和食、洋食、あるいは中華しかできませんというわけにはいかない。従来型の職人とは違うそのための人材を育て、同時にコストパフォーマンスも考えていかなくてはならなかったわけです。
調理師学校まで持ったのは業界ではウチだけですが、これには労働力を確保するという狙いもありました。当時は高度経済成長の時代でしたし、労働力が絶対的に不足していました。なかでも、若い労働力を確保することは、まさに至難のワザだったんですよ。事業を立ち上げてすぐに調理師学校を設立したのも、そんな危機感があったからなんです。
それ以外に何か明確な戦略があったのかといえば、やはりそれは、今風のサクセスストリーのようなカッコのいい話にはならないでしょうね。人生のすべてだった野球で挫折し、日本一の事業家になることを決意して以降、とにかくがむしゃらにやってきたというのが真実です。それ以上でもそれ以下でもありませんよ。
創業から4年後の1964年、志太は事業を給食サービスに特化するため、社名を「富士食品工業」から「フジフード」に変えた。
75年にはカフェテリア方式の確立へ向け「キャフトフードサービス」、86年には新市場開拓をにらんで「シダコーポレーション」、
さらに94年には株式公開を目指して現在の「シダックス」へと社名を変更した。
そんななか、カラオケ事業へ進出したのは93年のことである。
カラオケ事業を始めたのも偶然で、明確な戦略があったからではないんです(笑)。
当時、調理人にプライドを持たせようと、「文明割烹館」というファミリーレストランをやっていたんです。給食サービスというのは、ある意味、やっていればみなさんが食べにきてくれるわけです。ですから、料理人や社員にサービス業というものを体験してもらうと同時にお客さんとの接触を通じて仕事に誇りを持たせてやりたいと考えたのです。
ところが、給食サービスと一般的な飲食サービスとは決定的に違っていた。結局、ファミレス事業はうまくいかず、撤収しなければならなくなった。そこで困ったのが残された店舗でした。各店舗はすべて10年間の賃貸契約となっていて、少なくとも10年間は家賃を払わなければならなかったんです。