好きな車作りに、必要なこと不要なこととは
一時は株式上場の準備を進めた光岡だったが、そのときは業績がもの足りなく断念せざるを得なかった。 しかし、現在では「むしろ上場しなくてよかった」との判断に変わりつつある。 自動車メーカーとなってからの初めてのオリジナルカー・ゼロワンに始まりビュート、凌駕(リョーガ)、我流(ガリュー)、麗(レイ)、大蛇(オロチ)と、 独創的な光岡車を世に送り出してきた光岡。タイムリーでスマートな商売を支えているのは、やはり「好きな車を作りたい」という自動車屋としての原点である。
もともと自動車が好きで、自動車屋というものを立体的に見ようということでやってきたんですが、実はセールスというのはあまり得意ではないんですよ。 経営の方もそんなに上手ではないですし(笑)。ただ、企画的なことというか、考えることが好きなんですね。
マイクロカーがダメになったときも2、3カ月間はボサっとしていて、おっかちゃん(幸子夫人・現監査室長)から「あんた仏様みたい」といわれたんですが、 要するにアクが抜けるんですね、挫折すると。で、弟がアメリカに行ってシボレーのスポーツカーを買ってきて、 私もまたアメリカへ行ってキャンピングカー(RV)を買ってきて、日本で売ってみると、これがまたいい値段ですぐに売れたんですよ(笑)。
そうこうしているうちに外車は大排気量車であっても、8ナンバー(特種用途自動車)さえ取れれば売れるということが分かってきて、 最初は1台だったキャンピングカーも10台、50台と売れて、たちまち月100台くらいになりました。
アメ車というと、自動車好きには「ガソリンを食う」「壊れやすい」などと見られていますが、すでに15年も前から燃費がよくなっているんですよ。 リッター8キロくらいは走りますからね。乗ってみれば分かることなんですが、アメリカはインジェクション部分、すなわちコンピュータ制御の技術が 世界一なんですね。私にいわせれば、燃費はインジェクションの技術が生命線なんですね。

会社が大きくなっても守り続けたい
「自分の好きな車を作る」という原点
96年に自動車メーカーの鑑札は取れました。そのときは大きな会社にしていこうと思っていたんですが、部品の数は高級車でおよそ4万点、 大衆車でも2万点近くあるんです。これをタイムリーに発注し確保していくというのは、物理的に無理なんですよ。
また、株式を上場すると、儲けろ儲けろという話になって、好きな車を作れなくなってしまうような気がするんですよね(笑)。 一時は上場を考えたこともあるんですが、最近は否定的な考えの方が強くなってきていますね。
上場をするというと、それを当て込んで入ってくる社員もいます。本業で儲けなければならないのを横に置いてしまうというか、 システムやら報告書といったことばかりに振り回されて、好きな車を作りたいという思いとかけ離れてしまう。本末転倒になってしまうんですよね。
会社全体は少しずつ大きくしてはいきたいんですけれど、やはり好きな車を作りたいなという思いは捨てられません。 イギリスのモーガンだとかロンドンリムジンだとか、例えばロンドンリムジンの場合は部品メーカーとしての基盤の上で車を作るというように、 きちんとした考えのもとで会社を経営しています。また、富山にもYKKという世界的な企業がありますが、あそこもやはり上場はしていませんしね。 現在、日産やホンダのフレームをベースにしているものは改造車のカテゴリーに入りますが、ゼロワンやオロチなどのオリジナルフレームから作る オリジナルカーは光岡車になります。大ざっぱにいうと、オリジナルカーの場合、エンジン以外は光岡製というわけです。
いずれにせよ、デザインをする際の原点となるのは、「自分が乗ってみたい車」ということです。さらにその原点はということになると、 自分が中学時代に思い描いていた車ということになるんですが、今でも「タテ型のグリル(光岡車のトレードマークになっている車前面のタテ縞のデザイン)」と いうのがやはり高級で一番だと、自分では固く信じているんですけどね(笑)。
2001年には、監査室長のおっかちゃんのスーパーカーへのあこがれをカタチにした「大蛇(オロチ)」を東京モーターショーに初出展したんですが、 この車を作るときに私がデザイン担当者に指示した言葉は「ランボルギーニと向かい合っても勝てるツラにせえ」というものでした(笑)。 イメージは「悪者」「極悪」(笑)。とにかく、「人が抱く最悪のイメージを考えろ」と(笑)。すると、ウチのいちばん若いデザイナーが蛇が好きで、 私もおっかちゃんも販売部長も「あっ、これだ!」ということになったんです。みんなが一発で納得したという強烈な顔でしたよ、これは。
いずれは同族的経営からも脱していかなくてはならないとは思っているんですが、同族会社でなくなっても、 マーケティングなどせずに「自分の好きな車を作る」という原点は変わらないでしょうね。

1939年、富山県生まれ。富山県立富山工業高校卒業後、自動車ディーラーへの勤務を経て、68年光岡自動車工業を個人開業。70年カーショップ光岡自動車を開業。79年株式会社光岡自動車を設立。81年中古車販売の全国展開を開始し、82年初めてのオリジナルカー「ゼロハンカー」を発売。96年「ゼロワン」が型式認定を取得し、日本で10番目の乗用車メーカーとして認可される。