
その後、堀場製作所は1959年11月に日立製作所との業務・技術提携を実現し、1971年3月には大阪証券取引所と京都証券取引所に株式を上場、 1982年9月には東京と大阪の両証券取引所第1部に株式を上場した。 現在は世界各国に研究所や工場や支店などのグローバルネットワーク網を展開する世界のHORIBAとなったが、 そのような拡大路線のなかにあってもpHメーターに始まる“コア”の計測分野を逸脱したことは一度もなかった。
私は常々「錐の理論」ということをいっているんですが、これは今、私が座っているソファー部分を手のひらで押して圧力をかけてもただへこむだけですよね。 しかし、これを同じ圧力で錐で押したらプツリと穴が開きます。つまり、同じ力でも面積が小さい、先の尖ったもので圧力を加えれば貫通するのです。 これは商売も同じで、カネや能力といった持てる力が固定されるとすれば、ゴマすり器から原子力発電まで幅を広げてやっても、 すべての分野で貫通させることはできないんです。
具体的には当社は日立と提携しましたが、日立には1000人、2000人からの社員はいても、pHメーターをはじめとした計測機器の専門家は1人か2人しかいません。 当社が日立製作所と業務・技術提携した1959年当時、総合電機メーカーである日立が抱えていた計測機器分野の専門家は2人で、 この分野に対する年間の開発投資額も5000万円から1億円でした。
対して、当社が抱える専門家は5人、投資額は3億円。ヒトで2倍半、カネで3倍から6倍も多いのですから、日立がどんな大企業といえどもウチが先を行くのは当然です。 すなわち、小さな、しかも創業間もない企業を成功させるには、狭い得意分野で徹底的に攻めて、それを少しずつ広げていくのがベストなんですね。 当社はpHメーター一本でスタートしたわけですが、世界中のどこを探してもpHメーターにそんなにカネをかけているところはないわけですから、 この分野で世界一になって当然なんですよ。反対に、これもやりますあれもやりますと手を広げると、投資の密度が薄まってみんな二流品ということになってしまいます。
事業は一本に絞れば
「日本一、世界一」が見えてくる
これは京都という地域性もあるのかもわかりませんが、京都にはオンリーワン志向といいますか本物志向といいますか、 とにかくある特定の分野で日本一、世界一にならなければならないという考え方がありましてね。 ニセモノや二流品で安いものを作ろうとすると、みんなからバカにされるんです。 どんなに狭い仕事でもいいから、「この分野ならあの人が日本一や、世界一や」といわれなければ、絶対に認めてもらえない文化があるんですね。 全部が一流ということはできませんが、これだけなら日本一、世界一という可能性は、逆にどんな人にもあるということになりますよね。
当社も、液体の測定をするpHメーターを手始めに、今度は気体の濃度、アルカリ性を測定するための赤外線分析計、さらに固体の元素を測定するための蛍光X線分析装置と、いわゆる計測機器の分野、そのなかでも測定原理を絞って徹底的に攻めてきたわけです。私も「そうすればその分野では世界のどこにも負けない」、あるいは「世界で一番を取れないことはやるな」といい続けてきました。 言い換えれば、当社はこれまで「分析一本」、技術についても「方式一本」でやってきたわけです。
「3台売れるならまあいいか」で始まった、排ガスの分析装置
とはいえ、こうした技術を何に利用するかについてはいろいろあります。 うちでいえば例えば、気体、ガスの分析でした。当社は最初、気体の分析装置を人間が吐く息を分析する医療用機器として開発していたんですが、 昭和30年代の終わりごろ(60年代半ば)からアメリカのロサンゼルスのスモッグが社会問題化しましてね。主に自動車の排ガスに原因があったため、 日本でも通産省(現経済産業省)が精密な分析を行いたいということになって、当社の医療用のガス分析装置を排ガス用の分析装置に 転用したいという話がきたのです。原理は一緒でしたからね。
しかし、私は「排ガスなんていう汚いものに転用したくない」といったんですが、担当者が私に隠れて密かに転用するための開発を進めていましてね。 その事実が私にバレたとき、担当者が「3台は売れるから続けさせてほしい」というので、「3台売れるんやったらいいか」と開発の続行を差し許したんですよ。
その後、それが300台になり3000台になって、ついには3万台も売れてしまいましてね(笑)。 このように持っている技術を何に利用するか、できるかということはいろいろと出てくるのです。
2001年8月、日亜化学工業と中村修二氏との間で、青色発光ダイオードの開発対価をめぐる騒動が勃発した際、 堀場は経営者としての立場から中村氏の姿勢に疑問を投げかけていた。日本における「学生ベンチャービジネスの第1号」といわれ、 家屋敷を担保に入れるなどして次々と押し寄せる苦境を脱してきた堀場には、日本を支えてきたモノづくりビジネス、とりわけモノづくりベンチャーに対する、 あふれるような思いとこだわりがある。
私は自分で大学を飛び出して、自分で会社を作って、家屋敷もすべて担保に入れて、事業に失敗したら夜逃げするしかない、というリスクを背負ってやってきました。 堀場製作所を設立する前の電解コンデンサ開発で100万円の借金をしたときも、当時は消費者金融などありませんでしたから、親類や友人を頼ってカネをかき集めました。 いずれにしても、事業に失敗したら人生オシマイという事態が十分にありえたわけです。
そのようにみずからリスクを背負って開発したものを自分の権利として売ることは当然だとは思いますが、会社にいながら開発したものは、開発した本人の能力は認めるとしてもやはり会社のものなんですね。勤め人の場合、失敗したときの経済的リスクは基本的に会社が背負うわけですから。 つまり、リスクに対する効果というものと、その人の能力に対する評価というものは、切り離して考えなければならないわけです。
当社でも、開発した者に対しては相応の対応をしていますが、だからといって売り上げた利益から何まで開発者のものということにはなりません。 そんなことをすれば、その製品を製造した人はどうなるんだ、売った人はどうなるんだということになってしまいます。
開発した人が利益のすべてをもらいたいなら、組織を飛び出しリスクを背負って開発すればいい。それだったら「カマドの灰までわしのや」といえますが、 そのあたりのバランスを見失ってしまうと会社も開発者もおかしくなってしまうでしょうね。ただ、この問題は両者の関係が成熟していけば、常識的な範囲で解決は可能だと思っていますけどね。
むしろ深刻なのは海外などへの技術流出の方で、特許を取ったといっても実際には簡単なカギをかけた程度の防御にすぎません。 ホンダのCVCCエンジンには上部のバルブだけで200以上もの特許が出されたと聞きました。あらゆる事態を想定してどこから攻め込まれても ガードするということは、それほど大変なことなんですよ。いわんや中小企業が「特許を取っているから大丈夫」などといっても、 特許というのは、逆に他人にアイデアを提供しているような面もあって、すぐに違う道から山を登らるようになってしまうんですね。