「仕事はバクチ」 浮き世の本質を知っておけ
岡野の風体は、どこをどう見ても、インテリのそれではない。それどころか、近くから見ても遠くから見ても、典型的な「下町の町工場の頑固オヤジ」である。もちろん、しゃべり口調も典型的な江戸下町言葉のべらんめえだ。
ただ、その風体からは、強烈なまでの人間的魅力とともに、そこはかとない人間的気品が漂ってくる。ここが、ただの下町の町工場の頑固オヤジとは違う岡野の真骨頂だ。
私なんか向島更正国民学校しか卒業してないんですよ。このあたり(向島界隈)は終戦直後一面の焼け野原で、よほど勉強が好きなヤツでなきゃ、学校なんていきませんでしたからね。私も勉強は嫌いでしたから、いいチャンスだって、遊びほうけちゃったけど、ただ遊んでたんじゃそれで終わりになっちゃうんですよ。 遊ぶにしても、自分の将来を考えて、そのためのノウハウを極める遊びをしなくちゃ。何たって、戦前はここは今の新宿・歌舞伎町みたいなところだったんですよ(笑)。今の歌舞伎町は、あなた、人間の住むところじゃなかったんだから。六本木だって、狸が出るから、「狸穴」っていったんでしょ(笑)。
とにかく、今の歌舞伎町みたいなところで生まれ育ったんですから、マジメにやれなんつったってハナからムリですよ。若い女工さんから俳優に落語家に漫画家に物書き、果ては赤線にテキヤにヤクザと、とにかくえらい賑やかだったんですよ、ここは。
要するに、私はそんな雰囲気のなかで、浮き世を生きていく勘というか、世渡りの方法みたいなものを、遊びを通じて学んでいったわけです。赤線が廃止されてから文化もなくなっちゃったけど、みんな赤線の女の人たちから人生の作法を学んだものですよ。今は若い人が公定価格でガス抜きをすることさえできなくなってしまった。一種の二極分化ですよ、これも(笑)。
商売の発想もそうした雰囲気のなかで鍛えられていくわけで、商売ってのは基本的に人とのつき合いから始まるものなんです。その人に魅力があれば、「オレがカネを出してやる」というふうに、スポンサーも見つかる。そういうものなんですよ、世の中というのは。 平たくいえば「仕事はバクチ」なんだから、若いときに遊んで、いろいろ経験をして、世間、浮き世というものの本質をしっかり知っておかなくちゃいけない。何をするにしても、そこが大事になってくるんですよ、ホントに。

昨年、岡野は腸捻転で病床に伏した。この一事からも推察されるように、豪放磊落に見える岡野は、その実、極めて繊細な一面を持ち合わせている。「天才は1%のひらめきと99%の努力によって成る」といわれるが、岡野の場合も、「世界一の職人」「スーパー町工場」といわれる陰で、知られざる繊細な感性、シャイな人間性と不屈の努力が隠されていた。
今の私の技術の基礎は明治37年生まれのオヤジ(先代)から教わったもの。昔はライターだって、口紅のケースだって、クリームのフタだって、ボールペンの本体だって、みんなプラスチックじゃなく金属だったんです。これらはすべて金属を絞り込む、いわゆる「絞り」の技術で作っていたんだ。 もちろん、それだけじゃ、今の技術にはならない。つまり、オヤジから教わった原型の技術をアレンジして、もっといい技術、もっと効率的な技術にしたのが2代目の私なんです。ただ、私は一度もサラリーマンをしたことがありませんから、そのような新しい技術は本を読んで独学で勉強しました。
実は、30代の半ばだったかな、私が昵懇にしていた大会社の社長に「もうウチのオヤジから教わることは何もない。新しい技術を学ぶために、どこかの会社で武者修行してみたい」と相談したことがあるんです。すると、その人から「何いってんだ、何で他人のところへいく必要があるんだ。本を買ってきて勉強すりゃあいいんだ」といわれましてね。
また、その人からは「ただし、その本はすべてドイツ語で書かれている。だけど、オマエさんは金型の作り方は極めているんだから、字なんか読めなくてもイラストを見ればだいたいわかるはずだ」というんです。で、さっそく日本橋の「丸善」にいって、金型の最新技術を解説したその洋書を買ってきた。今から40年ほど前の話ですよ。
その本を見ると、なるほどドイツ語なんか知らなくても、イラストを見ればすべて理解できる。実際、その本に書かれている技術を知ると知らないではたいへんな違いだった。
かも、この本は今でも十分に参考になるんです。新しいものを作ろうとしていると、どうしても行き詰まることがあるんですよ。そんなとき、この本を開いて見ていると、アイデアが浮かんでくる。ほかの人はこういう本があるということを知らないんじゃないの。もちろん、この本に書いてあることだけで新しい技術ができるわけではなく、これをヒントにいろいろと改良を加えなければならないんですけどね(笑)。
それをするのがウチの職人たちで、私が本を読んでだいたいのアイデアを出すと、その後は彼らが工夫を重ねてなんとか完成してくれる。ただし、これには時間もかかるし、カネもかかりますよ。でも、他人のマネをしていたら、100円のものをやがて80円で、しまいには50円で売らなきゃならなくなるんです。だから、リスクの多い仕事を選んで挑戦しろといっているんですよ。